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2018年1月15日 (月)

人間の心と身体(身心一如、無心になる)

今日は新年になっての初の座禅で多くの思いを心に持って禅寺を訪れました。

そして座禅では初詣で菩提寺住職さんからお聞きした法話、そして住職さんから頂いた直筆の「書初め」に書かれていた無心」という言葉、さらに新年に墓前で両親に誓った年老いた人間としての役割など新年にあたって新たな思いの座禅をしましたが、自身の遊行期の多くの反省ばかりの自問自答の繰り返しばかりで、私がつねに若いに人に伝えたいと思っている「損か得かだけでものごとを判断すると不幸になる」いうことについて、未来から今の自分を見つめる悟りを得ることができないまま時間だけを過ごしてしまいました。

こうした座禅の中でも曹洞宗の祖師道元の「身心一如:身体も大切であるが心も大切にする」という言葉と「只管打座:心の調和するため座禅すること」という二つの言葉、そして前にもふれた元旦に菩提寺住職さんから頂いた「書:無心」という言葉から私は自分が生かされている役割と人間として「生きてて良かった」と思えるような人生の生き方だけを再自問して、健康な身体と健康な精神」を祈願することは「利他の心」で多くの煩悩を捨て去ることではないかと思いながら、私の師を求める心から両親に感謝、家族に感謝、心友に感謝と多くの心友の顔が浮んだ座禅でした。

今日はこうした思いと前にもふれましたが、私はいつも禅寺を訪れると参拝する前に必ず仏の真理の道理に触れている境内の伝道掲示板に新年の言葉として書かれていた「悪言、心を卑しめ自身を傷つける。正しき言葉は人の喜びを与え、心を楽しくする」の仏語を心に刻んで禅寺から帰宅し、仏壇に「ありがとうございました」と合掌して「心をからっぽ」にして心が落ち着かせ、心の静寂を保ってから写経・写仏をして床に就きました。

最後になりましたが、私は常に「身体を大切にすることは心を大切にすること、心を大切にすることは身体を大切にすること」であると思っていますが、現世は人を思いやる心が希薄なって善的生活習慣に気づかない人が多く、このストレス社会の中では非常に難しいことと思いますが、その「“人の心”とストレスついて、少し感じていることを追記させて頂きました。

追記

私は子どもの頃から常に両親からに性善説で物事を考えるようにと言われており、それが人間の心の原点にだと今でも強く思っていますが、現世では時折「善より悪が強い」と「利他の心」が薄れてきていると思うことが多く悲しくなります。

皆さんはこのようなことでさまざまなストレスが溜まっていないでしょうか?

お医者さんからストレスが原因で体調を崩し、様々な病気を引き起こすことがあると聞かされたことがあり、私も自分に直接かかわりのないことでも心が乱れてストレスではないかと思うことがあります。(現世はストレス社会だからでしょうか?)

私はこうしたストレスで病気を引き起こさないようにと先人・賢人が正しい道を説いている書籍をよく読み、その中からこれはという智的・善的生活習慣を学ぼうと自己を学習して、心を磨くようにしていますが、今日はそうした思いの中からこの言葉だけは非常に大切ではないかと私の思いを書かせて頂きました。一緒が学習しませんか?

『人間としての原点』

●日々の子ども教育

仏教に「愛語よく回天の力あり」と言う言葉があるように「ありがとう」という人を思いやる「愛語」で人の心を動かすことができると思います。

こうした毎日感謝しながら過ごす「ありがとう」の言葉で日々の生活の中で幸せを感じることが多いのではないでしょうか?

※私の心友(K様)は孫の教育は「ありがとう」から始まり、この「ありがとうの心」がお孫さんから友たちの伝わり、その友だちからまた他の友だちへと地域の子ども教育に貢献しています。

●住職さんの法話の「無心」から

「無心になる」とは一つ一つ自身の心に問いかけ、自分の心に真に向き合うことで「雑念や邪念を持たない」修行ができ、悟りを得る道を見っけることがでるということです。

私は「無心になる」ということで智的・善的生活習慣を学ぶこともできると思います。

●心を沈める論語(私の論語学習からの一言)

武士道や論語にはストレスを防いだり、乗り越えたりするのに役立ついろんな知恵があります。私の論語学習から次の論語を書かせて頂きました。

①義を見て為さざるは、勇なきなり(為政篇)

私訳:正しいことだと知りながら損得を考えて実行しないのは勇気のない人間である。

※保身を忘れ、真の勇気を持つこと。

②人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う(学而篇)

私訳:学問は自分のためであって、人に知られるための虚栄心でやっているのではない。

※私利私欲の心を持たず、善の心を持って自分のありのままで相手と接する。言行一致であれば人は信用される。

内に省みてやましからずんば、それ何をか憂い何をか懼れん(顔淵篇)

私訳:何事も反省の上に行動していれば心配することはない。

※別につねに利他の心で反省せよという「吾日に吾が身を三省」と言う論語があり、自身がその反省しているかどうかです。

徳は孤ならず必ず隣あり(里仁篇)

私訳:人は徳があれば決して孤立しない。必ず理解し協力する人が出てくる

※儒教の五徳「義・仁・礼・智・信」もっていれば素晴らしい師友が支えてくれる。
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     禅寺の伝道掲示板
●写経

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「一字一仏」一文字、一文字、書くごとに心が休まるから不思議です

●写仏
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   無心になる(心の中を空っぽにしてくれる)

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2018年1月 5日 (金)

新年の禅寺参拝(神・仏の機縁に感謝)

今日は心友との一期一会の感謝を捧げるため新年の参拝に禅寺にいってきました。

人生には誕生、成長、成熟、老衰、死という期がありますが、また古代インドには理想的な人生のそれぞれの生き方として“学問を身につける時期”“家庭を持ち仕事に励む時期”心を無心にして他人の役にたつことを考える時期そしてこれまでの知恵をもとにその道を人に説き伝える時期と4つに区切る四住期(学生期、学生期、林住期、遊行期)という思想あります。

私はこうした四住期の最後の遊行期(85歳)になり、これまでを振り返ると多くの人に支えられてきましたが、これも神様・仏様の機縁での一期一会で心友から多くのことを学び、これまで歳を過ごすことができたのだと感謝し、そうした思いを年賀状にも元旦の記事にも「遊行期の新年を迎えることができました。これも皆様との出会いとご縁のおかげです」と書きましたが、今日はこうした皆さんとの仏の機縁による一期一会に感謝しての新年禅寺参拝をしました。

また私は禅寺を訪れたときは、必ず境内にある伝道掲示板に書かれている仏の真理の道理の言葉に触れてから参拝していますが、今年の新年の伝道掲示板の言葉は「謹賀新年 佛紀2584年」と書かれており、私はお釈迦様が誕生してからの年数か?と何時もと違った思いと私の師友・心友(I様・Y様)が座禅と道元禅師の「正法眼蔵」を学習している禅寺でもあり、そしてこの禅寺で私が心の静寂を求めて毎月座禅に通うようになったのも仏様の機縁ではないかと思いました。

(この禅寺は私の中学・高校時代を過ごしたに学校に隣接しているお寺でよく同窓と境内を散歩したお寺で、またOBのI様・Y様と同じ禅寺で学習しているのも仏様の機縁ですね!)

最後になりましたが、現世は社会も企業も個人にもこうした大切な一期一会の大切さに気づかず「利他の心」忘れた「損得」だけを優先する社会になってしまったなあ~と思いつつ「損得の心」からは真の社会貢献するために学ぶものは無いと思いました。

私もこうしたストレス社会の中で多くの反省ばかりが残っており、大変難しい課題ではありますが、先にふれた遊行期の人間としてこれまでの知恵をもとに一期一会の友人の支えを得て「利他の心」なくして人間の幸せなしを若い人に伝えていきたいと思います。

~すべての出会いに感謝(ありがとうございます。ありがとうございます)で床に就きました~

※私は還暦から毎日、その日の出来事を日記に25年以上付けてきましたが、今年の元旦から出来事だけでなく、その日感じたことや今の思いを床に着く前に書く「おやすみ日記」を付けるようにしました。今日の日記は感謝・感謝の日記となりました。

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       禅寺の本堂
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      本堂前の香炉
 お線香の香りにおかげさまと感謝
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    禅寺の新年伝道掲示板











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2018年1月 1日 (月)

2018年元旦(無心になれ)

私たち家族は毎年大晦日には菩提寺のお墓の掃除とお花を飾り、お線香を供えて先祖に感謝・両親に感謝と家族の健康を報告し、一旦我が家へ帰り、除夜の鐘を聞きながら再び菩提寺を参拝して本堂で護摩祈願をさせていただいていますが、今年は弟の奥さんも私の妻も足腰の病で深夜の外出が困難なことから弟と二人で少し早めに年越しそばをいただき、来る年を前に再び我が家を出て菩提寺を訪れ、悟りへのお導きがあるようにと鐘撞堂で梵鐘を撞いてから本堂での護摩祈願に参加させていただきました。(大晦日と元旦の昼間は弟夫婦と私たち夫婦四人)

私はいつもお寺を訪れると自分に何かを問いかけて反省し、山門をくぐると悟り(心が洗われる)を感じ心が安らぎます。

私が遊行期に入ってからか?新年を迎えて「おかげさま」の感謝だけでなく多くを自問自答し、何かの思いがあっての梵の鐘撞堂で梵鐘を撞いて、その梵鐘の荘厳な響きで煩悩が一つ消え、悟りに至る功徳を心に残して護摩祈願に参加させていただきましたが、本堂で般若心経を唱えている時も護摩壇の炉に護摩木を投じ所願成就を祈願している時も何か心に安らぎと幸せを感じ、御祈祷の護摩お札を頂いての初詣でした。

今年も護摩祈願が終わってから住職さんの法話で心が洗われ、また直筆の書「無心」を頂き、法話の中で住職さんから「無心」について、「無心になる」とは修行(自分の心に真に向き合う)することと同じで雑念や邪念も持たず、悟りを得る道が見っけることで、人間が自分の内心(ネガティブな部分)をよく見ることが大切であるとのお話をお聞きし、私は住職さんの法話と書初めの言葉を一つ一つ自身の心に問いかけ、自問自答し反省して、自分を磨いていくことを先祖にあらためて誓いながら帰宅しました。

帰宅したのは午前3時、2017年を過ごした1年の反省と新年の梵鐘を撞いた清々しい気持ちを妻と語りながら新しい年を祝い、あらためて仏壇の前で手を合わせ、午前4時過ぎ床に付きました。

最後になりましたが、私は毎月2回新しい自分を見つめるため、先にも触れたましたが心友が道元禅師の正法眼蔵を学習している禅寺で座禅していますが、来週は今年になっての初座禅で自分の心に真に向き合い、住職さんに頂いた「無心」について「心をからっぽ」にして、本当の自分を見つめてきたいと思います。
今年も多くの年賀状に感謝・感謝の2018年です。

追記

私は古代インド人生の区切りでいう人生4つの区切りの最後の遊行期で、その遊行期の新年を迎えることができたことに感謝して以下の様な年賀状を出させて頂きましたが、師・心友、若い社員、親族からも285枚の有り難い年賀状をいただきました。

私はその一枚一枚の近況や励ましの言葉に「身心一如」の心で何か年老いた人間とその役割を果たしたいと思っています。これからもご指導ください。
 
「私の感謝の年賀状」
 
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    心が洗われる菩提寺の参道
 
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  鐘撞堂で梵鐘を一番に撞く(弟と私)
 
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住職さんの読経の中、参拝者が一人一人護摩壇の炉に護摩木を投じ所願成就を祈願する。(本堂)
 
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      住職さんの法話
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    住職さんから頂いた書初め
 
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 我が家の心の支えとなっている献燈
 2018
元旦の月(私に何かを気づかせてくれて1句)

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    玄関脇にある我が家の守り神
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 1月いっぱいは咲き、私を毎日迎えてくれる水仙
  花言葉:神秘・私のもとへ帰ってきて
※花は綺麗だろうと咲いているわけではない。無心に咲いている。その無心の中に美しさがある。(今年の住職さんの「書」からその思いを写す)

 

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