2018年元旦(無心になれ)
私たち家族は毎年大晦日には菩提寺のお墓の掃除とお花を飾り、お線香を供えて先祖に感謝・両親に感謝と家族の健康を報告し、一旦我が家へ帰り、除夜の鐘を聞きながら再び菩提寺を参拝して本堂で護摩祈願をさせていただいていますが、今年は弟の奥さんも私の妻も足腰の病で深夜の外出が困難なことから弟と二人で少し早めに年越しそばをいただき、来る年を前に再び我が家を出て菩提寺を訪れ、悟りへのお導きがあるようにと鐘撞堂で梵鐘を撞いてから本堂での護摩祈願に参加させていただきました。(大晦日と元旦の昼間は弟夫婦と私たち夫婦四人)
私はいつもお寺を訪れると自分に何かを問いかけて反省し、山門をくぐると悟り(心が洗われる)を感じ心が安らぎます。
私が遊行期に入ってからか?新年を迎えて「おかげさま」の感謝だけでなく多くを自問自答し、何かの思いがあっての梵の鐘撞堂で梵鐘を撞いて、その梵鐘の荘厳な響きで煩悩が一つ消え、悟りに至る功徳を心に残して護摩祈願に参加させていただきましたが、本堂で般若心経を唱えている時も護摩壇の炉に護摩木を投じ所願成就を祈願している時も何か心に安らぎと幸せを感じ、御祈祷の護摩お札を頂いての初詣でした。
今年も護摩祈願が終わってから住職さんの法話で心が洗われ、また直筆の書「無心」を頂き、法話の中で住職さんから「無心」について、「無心になる」とは修行(自分の心に真に向き合う)することと同じで雑念や邪念も持たず、悟りを得る道が見っけることで、人間が自分の内心(ネガティブな部分)をよく見ることが大切であるとのお話をお聞きし、私は住職さんの法話と書初めの言葉を一つ一つ自身の心に問いかけ、自問自答し反省して、自分を磨いていくことを先祖にあらためて誓いながら帰宅しました。
帰宅したのは午前3時、2017年を過ごした1年の反省と新年の梵鐘を撞いた清々しい気持ちを妻と語りながら新しい年を祝い、あらためて仏壇の前で手を合わせ、午前4時過ぎ床に付きました。
最後になりましたが、私は毎月2回新しい自分を見つめるため、先にも触れたましたが心友が道元禅師の正法眼蔵を学習している禅寺で座禅していますが、来週は今年になっての初座禅で自分の心に真に向き合い、住職さんに頂いた「無心」について「心をからっぽ」にして、本当の自分を見つめてきたいと思います。
今年も多くの年賀状に感謝・感謝の2018年です。
追記
私は古代インド人生の区切りでいう人生4つの区切りの最後の遊行期で、その遊行期の新年を迎えることができたことに感謝して以下の様な年賀状を出させて頂きましたが、師・心友、若い社員、親族からも285枚の有り難い年賀状をいただきました。
私はその一枚一枚の近況や励ましの言葉に「身心一如」の心で何か年老いた人間とその役割を果たしたいと思っています。これからもご指導ください。
「私の感謝の年賀状」
心が洗われる菩提寺の参道
鐘撞堂で梵鐘を一番に撞く(弟と私)
住職さんの読経の中、参拝者が一人一人護摩壇の炉に護摩木を投じ所願成就を祈願する。(本堂)
住職さんの法話
住職さんから頂いた書初め
我が家の心の支えとなっている献燈
元旦の月(私に何かを気づかせてくれて1句)
玄関脇にある我が家の守り神
1月いっぱいは咲き、私を毎日迎えてくれる水仙
花言葉:神秘・私のもとへ帰ってきて
※花は綺麗だろうと咲いているわけではない。無心に咲いている。その無心の中に美しさがある。(今年の住職さんの「書」からその思いを写す)
コメント
明けましておめでとうございます。
今年も変わらずよろしくお願いします。
ご家族皆様のご多幸をお祈り申し上げます。
投稿: 広瀬 亮 | 2018年1月14日 (日) 14時23分
清々しい気持ちで新年を迎えられたようで、慶賀の至りです。新年は晴れやかな気持ちで迎えたいものですね。日本古来のお正月には、特有の厳粛な空気が漲っています。来年も是非とも元気で、新年を迎えたいものです。
私は少し年初から体調を崩してしまいましたが、春までには、復調したいと願っています。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
2018年1月18日 広 瀬 亮
投稿: 広瀬亮 | 2018年1月18日 (木) 16時34分